​プロフィール

1962年6月 新潟県燕市(旧西蒲原郡分水町)に生まれる 

 

地元の靴下編み機製造会社の技術者の父、それに一歩下がって寄り添う母、嫁ぎましたが2つ違いの妹と4人家族でした。

父はそのころの時代背景もあり「買い物はいいものを」の世代で福島の工業高校出身でしたので家電が好きです。

 

流行りだからと購入した洗濯乾燥機は何十年も使わずにほったらかしてある位です。

母は元々東京生まれで家業は食堂。疎かいで分水の地に避難します。

 

こちらに移り住んで一家は設計で生計をたてました。

 

母もその妹も手先が器用で裁縫をして生活の足しにしていたようです。

 

私と妹とは小学校の低学年までケンカばかりしていた記憶があります。

 

二十歳になるのを待って直ぐに結婚してしまい二十代のころの妹の思い出は少なく若い母親として頑張る姿しかありません。

今では子供も立派に成人させともに生まれ育った分水の地で車で10分足らずのところにいます。

 

今ではパン職人のチーフの腕前です。

小学校時代

 

小学校に入学して4年生になった時に自宅で遊んでいて台から転落し右ひじを複雑骨折。

 

父は仕事で1年の数か月は国内外に出張し、その時もヨーロッパに行って不在。

 

母親にケガを話すと我慢しなさいと言われ朝まで痛みに耐えながらいたのをよく覚えています。

 

紫色に晴れ上がった腕を母に見せて一目散に病院に向かいました。

小学校も1か月以上は休みギブスで固め動かなくなった腕をリハビリして回復するのに1年以上を費やしたと思います。

 

休んでる時にクラスメート全員から手紙をもらい大変うれしかった記憶があります。

 

体型は細く脆弱でストッキングすら余るほどでしたが入院中は楽しみが食事だけで動くこともままならず、

 

体型は一転し肥満児になります。頬っぺたがプクッと膨れあがりおなかの出た子供です。

小学校のマラソン大会では同じ肥満児のもう一人とビリの座を競っていました。

一番つらかったのは全校の太った子供を集めお昼休みに保健室近くの階段裏で「縄跳びで痩せる」とばかりにやらされたこと。

 

通る生徒にクスクス笑われるのが嫌でイヤで一気にやる気がなくなりました。

中学校時代

 

中学校にははいり部活動に入らなければならず、出来そうだと軽い気持ちで卓球部に入部。

 

運動に力を入れる校風で体操、剣道、卓球はいつも好成績でしたが人気あり部員が多いのでどうにかなるだろうと考えました。

毎日、基礎練(基礎を鍛える練習運動)が2時間ほどあります。

 

6キロランニング、うさぎ跳び500m、腕立て腹筋、電気椅子などを行いますが太った子供には大変キツイ。

 

食事をとるともどすので食べず、水も飲んではいけません。

根性が全ての練習でした。

 

2年生になりストレスからか体に発疹が出て汗かく運動全部がドクターストップされ退部します。

 

最初は本当にホットしていましたが帰宅時に見る仲間の基礎練姿に「俺はあいつらに負けたんだ」と思う様になりました。

高校生から学生時代

勉強も運動も大してできず負け犬根性が染みついた自分がイヤで「肥満が悪のスパイラルの根源」と思う様になります。

 

高校に入り1年の夏休みに一念発起して食事をサラダにして3キロほどランニングするダイエットを決心。

 

数カ月やり続け、普通の体型に戻します。

御託にもれずこの頃の高校生はたいがいバイクと車を手に入れるのが夢です。

 

日夜アルバイトに明け暮れ卒業のころには車を探します。

 

ちょうど先輩のつてで車屋の車庫にあったホコリまみれの「トヨタセリカ1600GTV」があることを聞きすっ飛んで行きました。

 

以前から気にしていた車で2回見て惚れ込み、バイトで貯めた35万円を全額はたき購入しました。

 

マフラーやタコ足を変えたり、自然吸気なのでキャブをいじったり、ステヤリング替えたりロールバー入れたり、

 

グリルやテールランプ外して塗装し直したりして、未来は自動車整備工になろうと思っていたころです。

それが高校3年のころにコンピュータの授業があり「これからの時代はコンピュータだ」と感じます。

コンピュータの専門知識が学びたくて大学には行かず新潟市内のコンピュータ専門学校に2年通いました。

賢い人が多くてビックリして勉強しますが大して成績は上がらず2年が経ちます。

たまたま金融機関のコンピュータ要員の求人があり「ダメもと」だと軽い気持ちで受けたところ合格してしまいます。

没頭すると飽きない性格でコツコツできるのが受けたのか?コンピュータ処理のフローチャート問題が早くできたからなのか?

良くわからないですが採用され大変うれしかった記憶があります。

社会人になり

 

とにかく、できが悪いのだからを肝に銘じ、本当に一生懸命仕事を行いました。

 

人の何倍もしなくてはついて行けないと、平日でも11時過ぎまで会社に残り月150時間くらいは多く仕事をしました。

 

今でもよくやらせてくれたものだと感謝しております。

 

おかげで金融取引の3割以上のボリュームを任され開発責任者を遂行しました。

 

(定期と通知預金、顧客情報管理の軒先管理、積み立て預金、住宅金融公庫など)

そのかいあってか優秀職員で表彰を受けました。

 

金融職は犯罪防止のため長期間、同じ部署にはいられずローテーションします。

勤続10年となり私にも恐れていたその時期が来てしまいます。

 

営業店配属を命じられ窓口業務を行いますがいつも違和感が付きまといコンピュータができる環境を求め転職します。

その後、

 

燕市の会社のシステム総括責任者になります。

 

入社時は前任者も既におらず、資料も何もない状態でどの様に組まれているのか、自分でプログラムを読み込みました。

 

ラッキーは郵便番号の7桁化や2000年問題があり、否が応でも全部のプログラムを読んで、直す必要が発生したことです。

ホストコンピュータで動かす基幹業務は、800本くらいだったと記憶していますが、全て修正をこなし終了しました。

それを足場に業務を分析し、新たな仕組みを組み上げる為のシステムを考案します。

 

更に仕組みになるように社内に普及する活動をすすめ、ISOやQC活動と絡め進行しした。

それまで汎用機と呼ばれる大型コンピュータばかりで、パソコンを触ったことすらなかったです。

「コンピュータで仕事が良くなる」を確信し入った世界ですので、コンピュータを根付かせるには?を常に考え進行しました。

当初は社内のパソコン台数は圧倒的に少なく、現場はパソコンを操作できない人ばかりです。

 

しかし、自分もできないのですから気持ちがよくわかりますので、教えるのをいとわずできます。

専門用語を使わない話し方、資料の作成方法など工夫して行い全社員が何かしらパソコンで仕事ができる様に考えます。

 

QC活動からの改善活動と現在の問題分析、それを改善し時間や消耗品のコストを最小限にする仕組みを考え導入。

 

改善が改善を生む連鎖をさせることが仕事になりました。

仕事の投資効果を上げるため改善案件を練りこみ、プログラムや作業も極力自分で行い、機材などの値引き交渉も実行。

 

生み出す効果を試算し、社長や常務など会社の上層へ立案し新しい仕組みをつくります。

これらの仕事の積み上げが、現在の仕事を支えてくれているのは言うまでもありません。

 

コンピュータが世界を変えると確信して30年以上も経ちました。

 

これからも今まで通り、コンピュータをツールにして「困った」を解決できる仕組みを提案します。

 

今度は、「あなた」と「あなたの現場」を相手に、ウェブ・ホームページ・集客で効果の上がる方法を

 

仕組みとしてご提案することをやり続けます。

うまく行くのは、ホームページ集客・ウェブ集客で達成するのは集客イノベーションであり経営イノベーションです。

 

私は新潟県の燕市で生まれ育ちました。

 

以前は分水町と呼ばれており春には桜が咲き乱れ「おいらん道中」が行われます。

​「分ける水」で分水。地蔵堂とも呼ばれていました。

 

近くの大河津分水は約200年にわたり1000万人が工事に携わって完成した場所でもあります。

 

近郊の三条も含め製造・小売・サービス・建築が多くその中でも、以前はスプーンやフォークなど洋食器の磨き屋が盛んで

 

「直ぐに蔵が建つほど儲かる」といわれていました。

 

地場産業は商品化して販売するメーカーとそれを支える加工業者に分かれますが「良い品」「技術の力」のマインドはいまだ失われ

 

ていないと思っています。

地場の会社や店はいつも戦っています。

その一方で少子高齢化などの社会的な問題が大きな影となり将来はバラ色でなくなりつつあります。

 

製造でも建築でも小売りサービスなど「商い」する品を世の中に発信しなければならない時期に来ました。

既に首都圏に近いところにある多くの業態は取り組んでいます。

 

今まではやり方を教えてくれる人がいなかったのが問題でした。

 

あなたも私も、仕事で長年培った知識や技術は宝物です。宝に磨きをかけて互いに見出しながら「あなたらしい」をアピール

 

しましょう。今をかえなければ未来もかわりません。更なる手段で実行を決断するタイミングではないでしょうか?

なぜなら、私たちには約200年にわたり1000万人の人たちの「おもい」があるはずですから…

おもい。